長距離フェリー50年㊤、物流の経路 大きく変化 石油危機で経営環境一転 大型・省エネ化進む
物流企業
2018/03/22 0:00
50年前の1968年8月、小倉―神戸航路に2隻の大型高速フェリーが日本で初めて就航、物流の経路を大きく変えるきっかけとなり、その後、長距離フェリー航路が瞬く間に全国に張り巡らされた。しかし、それもつかの間、2度にわたる石油ショックや規制緩和、高速道路網の整備など業界を取り巻く経営環境は一転、70年代後半に入り、今度は生き残りのための航路再編を余儀なくされる。そして今、モーダルシフト機運が高まる中、船舶燃料油の硫黄酸化物(SOX)を規制する「2020年問題」が待ち構える。モーダルシフトの担い手とされる長距離フェリー業界の試練は、なおも続く。(高木明) 「過去、フェリー業界の転換期は石油ショックと、需給調整規制を無くした2000年の規制緩和だったのではないか」。東京―徳島―北九州航路を運航するオーシャントランス(東京都中央区)の髙松勝三郎社長は、長距離フェリー業界の50年の歴史をこう振り返る。 先駆けとなった阪九フェリー(小笠原朗社長、北九州市門司区)の試みは5千総トン級のフェリー2隻を配船し、航海距離452キロを14時間で結ぶものだった。これが日本初の長距離カーフェリーとなる。 当時、北九州-阪神の大動脈である国道2号の交通渋滞が激しく、トラック輸送は15、16時間かかり、延着の対応などに苦慮していた。道路の渋滞とは全く無関係に、確実に目的地に到着できる長距離フェリーの出現は、文字通り「海のバイパス」と映った。 阪九フェリーの成功は爆発的な長距離フェリーブームを巻き起こす。就航開始から5年が経過した1973年度には、全18社が23航路に52隻を運航するまでに拡大。この時期、現在の長距離フェリーの基盤がほぼ出来上がり、トラック94万台、乗用車・バス85万台、旅客518万人を運んだ。船舶会社の経営はトラック航送を中心とした貨物収入だけでなく、観光客も呼び込むなど旅客収入との2本柱だった。 70年2月にはダイヤモンドフェリー(現フェリーさんふらわあ、大分市)が神戸-松山-大分航路、8月には阪九フェリーと同じSHKグループの新日本海フェリー(入谷泰生社長、大阪市北区)が小樽(北海道)―敦賀(福井県)―舞鶴(京都府)航路を開設。翌71年3月には日本カーフェリー(現宮崎カーフェリー、宮崎市)が川崎―日向(宮崎県)航路に新造フェリー2隻を投入し、事業を本格化させる。 ただ、「我が世の春」は長くは続かなかった。73年10月、78年12月の石油ショックにより、主燃料のC重油価格が急騰、一転して航路の統廃合の動きが加速する。髙松氏は「阪九フェリーさんの就航時の燃料油価格は6千円(1キロリットル当たり)程度だったが、(石油ショック後には)9倍近い5万円超に跳ね上がり、瞬間的には総コストに占める燃費比率が50%を超えた時もあった」と指摘する。 このように、燃料油価格の高騰が続く中、最初に撤退を余儀なくされたのは、陸上のトラック輸送と競合している航路だった。72年11月の川崎―神戸航路(セントラルフェリー)を皮切りに、79年11月には東京―松阪(三重県)航路(フジフェリー)、82年3月には大阪-広島航路(広島グリーンフェリー)などが相次いで廃止に追い込まれた。 最初のフェリーが就航してから5、6年後には24航路・55隻まで増えたが、17年3月時点では11航路・35隻と縮小している。 なお、阪九フェリーの第1船「フェリー阪九」は5201総トン、速力18.6ノットで、積載能力はトラック80台(大型49、小型31)、乗用車60台、旅客定員1195人。時代が過ぎ、15年1月と4月にリプレース船として北九州―泉大津(大阪府)航路に投入した「いずみ」「ひびき」はともに1万5897総トン、23.5ノットで、トラック277台、東京-松阪(三重県)乗用車188台、旅客定員643人の積載能力を持つ。船舶の大型化・省エネ化が一段と進む。 ◇ ◇ 航海距離300キロ以上の長距離フェリーが就航してから50年。その発展の歴史、現状と課題について連載する。 【写真=小倉ー神戸航路に就航した日本初の長距離フェリー「フェリー阪九】