【ヒストリー】倉庫業の先駆者 渋沢栄一と物流
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2022/01/02 4:00
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2021年12月28日付 終面
多くの分野で先駆者として名を残す近代日本資本主義の父、渋沢栄一。物流についても進んだ考えを持ち、試行錯誤を重ねていた。「物資の輸送が産業発展を支える」「倉庫業は半ば公共的なもの」といった考えに基づき、追い求めた渋沢の物流構想は、今の物流事業にもつながっている。(辻本亮平)
理解されぬほどの先進性
渋沢の物流人としての経歴は、1876年(明治9年)、36歳の時に始まる。深川(現在の東京都江東区)に構えた本邸で、米穀をメインに貸蔵を始めた。政府の頼みもあり、地租改正で混乱したコメの流通を適正化する役目だった。当時、渋沢は既に第一国立銀行(現みずほ銀行)を開業、抄紙会社(現王子製紙)を創立し、それぞれ軌道に載せていた。
深川は大きな川が多く通っており、水運で色々な地域とつながることができた。深川の水利は後々、渋沢の物流構想の中で大きな意味を持つこととなる。
77年(明治10年)、渋沢は大きな動きを見せる。銀行家が集まる「銀行同盟択善会」を創立。この中で、政府が全国に貸蔵を設置し、保管や売買をしながら「倉庫証券」を発行する近代倉庫制度の創設を大蔵省(現財務省)に求めた。「産業を盛り上げるには、物流の発展が必要」という考えがあった。
しかし、この運動はとん挫する。渋沢史料館の桑原功一副館長は「当時の議事録を見ると、渋沢と大蔵官僚の話がかみ合っていない。渋沢の考えが進みすぎていて、あまり理解されなかったようだ」と補足する。
この後、渋沢にとっても、独立した倉庫業の必要性は切迫していく。頭取を務める第一国立銀行は倉庫を持っておらず、取引先の倉庫に預けた物品が横流しされる憂き目に遭う。
「もう自分でやってしまえ」と思ったのか、82年(明治15年)、渋沢は「倉庫会社」という名前の倉庫会社と、姉妹会社で金融業の「均融会社」を立ち上げる。共に本社を深川に、支店を横浜に置いた。
他方で、同年には海運事業の「共同運輸」設立に力を尽くす。ライバルの岩崎弥太郎が設立した「郵便汽船三菱会社」による市場独占に対抗する目的があった。トップダウン方針の岩崎に対し、渋沢は共同運輸を、各地の商人の寄り合いの集合体によって運営した。
両社は激烈な価格競争を繰り広げ、あわや共倒れという状況に陥る。桑原氏は「当時、伊藤博文が渋沢に対し『君らしくないじゃないか』とたしなめた、という記録が残っている」と話す。
共同運輸と郵便汽船三菱会社は後に合併。日本郵船となり、現在も海運業界のトップランナーとして物流を支えている。
渋沢が海運に力を注いだのは、岩崎に対抗するためだけではない。倉庫と海運を組み合わせ、より有機的な物流網を構築する狙いがあったとみられる。
設立後、渋沢の「倉庫会社」は苦しい状況に追い込まれていた。昔ながらの労働慣習が色濃く残る中で、思うような事業運営ができなかった。85年(明治18年)の深川廻米騒動をきっかけに休業した。
86年(明治19年)、倉庫と海運を組み合わせた「全国物流構想」を示し、「倉庫会社保護願」を政府に提出。渋沢の全国物流構想は、東北から中京まで拠点を置き、それらを内航海運で結ぶ、現代の物流構造にもつながるものだった。
構想では、北は秋田、南は四日市まで港湾都市に倉庫を置く。併せて深川を埋め立て工事により河港化し、物流網の中枢として使う。深川は古くから物流の要衝として発展し、当時も多くの倉庫が立ち並んでいた。
しかし、渋沢の提案は、またもや理解を得られなかった。保護願は認められず「倉庫会社」と均融会社は、設立から4年余りで解散。政府に近代倉庫制度の創設を求めた時と同じように、渋沢の考えは、当時としては先進的過ぎた。
渋沢の物流に関する足跡を追っていくと、これから10年ほど沈黙の期間を迎える。
独立事業「渋沢倉庫部」
渋沢が再び物流業で大きな動きを見せるのは、97年(明治30年)のこと。その頃になると、三菱や三井といった財閥が、深川に倉庫を持ち、金融と倉庫を結び付けた事業運営を始めていた。現代にも続く大倉庫会社の源流だ。
そんな中、渋沢は深川の邸宅内に、自身を営業主として、独立事業の「渋沢倉庫部」を創立。76年(明治9年)に始めた貸蔵業は、親戚の渋沢作太郎が経営する廻米問屋や、深川の倉庫業者に蔵を貸し、続いていた。渋沢倉庫部の運営は、長男の篤二に任せた。
渋沢倉庫部は第一銀行と結び付き、倉庫証券を用いて物流と金融の融合を進めた。1905年(明治38年)には「倉庫部将来ノ新築及業務発展ノ一般計画」を協議。人事刷新を経て、設備と人員を増やしていく。
09年(明治42年)には渋沢倉庫として株式会社化。当時としては珍しい、コンクリート造り2階建ての倉庫を建設し、エレベーターがない時代に、2階へ荷揚げするためのベルトコンベヤーを備えるなど、進んだ設備を整えた。
渋沢は31年(昭和6年)、91歳でその生涯に幕を下ろす。当時、渋沢倉庫は順調に事業を進める一方で、重厚長大物を扱う財閥系の倉庫会社と比べ、後れを取っていたのも事実だった。
転機を迎えたのは33年(昭和8年)。第1次世界大戦の中で力をつけていた大商社「鈴木商店」が、29年(昭和4年)に始まった世界大恐慌により潰れた。鈴木商店が持っていた大倉庫会社の「浪華倉庫」は行き場を失い、融資していた銀行団は渋沢倉庫に吸収合併を相談。渋沢倉庫が受け入れ、突然、全国規模の大倉庫会社が誕生した。
損得度外視「模範示せ」
渋沢は従業員たちに「倉庫業は、半ば公共的なものだ」と言い聞かせていた。紆余曲折を経ても、「産業を盛り上げるには物流の発展が必要」という思いは変わっていなかった。
象徴的なエピソードがある。15年(大正4年)、渋沢倉庫は小樽に出張所を構えた。当時、小樽にはまだ倉庫業が浸透しておらず、銀行などから請われての出店だった。
あつれきが生まれることは予想できていた。しかし「損得は度外視して、小樽に倉庫業の模範を示せ」と渋沢が発破をかけたこともあり、渋沢倉庫は、3年間はどんな損も受け入れ、取引先と衝突することもいとわないという約束の下、小樽に倉庫業を持ち込み、目指していた事業運営を一定達成した。
渋沢倉庫は現在も、渋沢の名を残す唯一の企業として事業を続けている。渋沢の「正しい道理で追求した利益のみが永続し、社会を豊かにできる」という理念を受け継ぎ、現代の渋沢倉庫もコーポレートスローガンに「永続する使命」を掲げている。